「あなたはどうして普通の子と違うの?」「もっと普通に生きられないの?」「あなたはちょっとおかしい」。
母親の言葉に傷付き、苦しみ、そんな自分を護るため、母に対して「暴言、反発、喧嘩」を繰り返す日々。。
50を目前に重度発達障害の診断を頂いて、やっとその生き辛さ、息苦しさの正体が発覚!からの開放〜
発達障害でも幸せになる道はあるし、人生楽しめるのだ!
(分かっていたけど診断するきっかけをくれた出来事に感謝しかないと思える今)
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これまでどんな壁にぶつかっても、自分のこだわりに正直に突き進んできた人生で、周りに迷惑かけることもたくさんあったけど、今はよかったって思えます。
「人と違う道でも、自分のこだわりを究極まで極めることで生命維持装置が働いてくれてたのかもしれませんね」
発達障害の診断を受けた時の先生の言葉に妙に納得している自分が居ました。
普通に、皆と同じように生きていたら「死ぬしかない」と本能でわかっていたのかもしれません。
親と離れてみないと気づけなかったこと
私は母の言うことを「はい」と聞いたことがなく、いつも反発して抵抗して万年反抗期状態で生きてきた私は「親に感謝して生きる」この言葉を周りから聞くたび心に痛みを感じ続けていました。
「親だからわかってほしい」「親だったら認めて褒めてほしい」心の中の叫び。
顔を合わせるたび、私を否定しているようにしか聞こえない言葉を浴び続け「なんで分かってくれないんだろう」と葛藤する日々。
でも、もうそんな日々にはピリオドを打つのだ!とある日私は心に決めました。
自分を殺しながら、それを親のせいにして生きるより、笑って1日1日を過ごした方が私らしくておもろいじゃん!なにより、母のためにもそれがいいと心底思えたからです。
そのおもいを伝えた時の母の激しい怒りをいまもハッキリと覚えています。
「今まで散々、好き勝手なこと言って最後には縁を切るようなこと?」
「やはり分かってもらえなかった」
傷付いた私はそこから3年、母からの電話にもメールにも答えることなく、癌になったことすら知らせず、それを親戚から聞いた母はどれだけ心を痛めたことか、その時はそんなことすら感じることすらできなくなっていました。
価値観の違う「応援」もあることに気づく
母と距離を置いていた時期も、私は多くの壁とぶつかりながら「自分らしさ」を大事に生きていました。
そして、北京パリという大きなチャレンジを進む中で多くの方々から母と同じような叱咤も受けることも数え切れないほどありましたが、それよりも大きな理解と応援もいただきました。
このチャレンジでたくさんの皆様と関わらせていただく中で気付けたことがあります。
それは叱責と感じることも、支えられていると感じることも、みんなそれぞれ価値観は違うけど、全てが私への「エール」であったということ。
「叱責だと思いこんでいた母の言葉は母なりの私へのエールだったのかもしれない」
そう気付けた私は、数年ぶりに「墓参りに行きたい」と理由つけて母に会いに行きました。
その時心に決めていたのは徹底して「与え続ける」こと。
突然の私の帰郷を母は驚きと共にとても喜んでくれました。
私が実家でしたかったことは「母の炊いた白いご飯に筋子をのせて食べたい」ただそれだけ。あとはゆっくりした時間の中で穏やかに母と娘の会話ができたらそれでいいとおもっていたのですが。。。
母は相変わらずでした(笑)
「あなたに食べさせたいものがあるからあれを食べに行こう!」「温泉に行こう!」「あれも食べに行こう」「これもやろう」
私はゆっくりどこにも行かず、ただただ休みたかったのですが(笑)
いつもならそんな母に怒る自分ですが、今回のミッションは与え続けること。。「よしっ!母がしたいことを喜んで受け入れてみよう!」と意識をシフト!
全てに「いいよ」と北京パリを走り切るためにコーヒー一杯も我慢してコツコツ貯めてきたお金もたくさん使ったぁー。
私が東京へ帰る日、母が私に「なんか変わったね、どうしたの? なんかやってもらってるばかりで申し訳なかったな・・」と、今まで聞くことの出来なかった言葉をかけてくれました。
「何かが母に伝わったのかもしれない」そう感じた私は静かに母に伝えました。
「私はただ、私を認めてもらいたかったんだよ。世の中の否定や理解されない自分は十分痛いほど分かっている。だけどね、それでもお母さんには大丈夫!って言ってもらいたかったんだよ。何もいらない、どこへも行かなくていい、ただそれだけで良かったんだよ」
涙を流しながら「ごめんね」と言う母に、私も「謝らないでよ。私は私、お母さんはお母さんでいいんから」と言いながら泣いていました。
帰り間際にそっと出された炊き立ての白いご飯の筋子ご飯。ほんっとぉーに美味しかった。。
それぞれのエールの形
こんな歳になるまで気付けなかった大切なことに、ほんの薄紙一枚剥がれたことで気づけた気がします。
ここからの人生は、母と共に笑って過ごせると思った決意の帰郷でした。
それはチャレンジし続けてきたから見えた世界です。
「このラリーに挑戦したい」と人に伝えると、かつての母のように「お前には無理だよ」と多くの人に否定されました。
確かに「夢」という言葉の持つ響きはいいけれど、現実の挑戦は失敗と挫折の連続ばかりです。
ですが、この「北京パリラリー」という『冒険の旅』の私の真の目的は、失敗も挫折も共有することで、恐れや否定という自分の心の限界を打ち破り、何かに挑戦しようとしている人の勇気と精神的な支えになることです。
皆さんと一緒に北京パリの14000kmを笑顔で走り抜きます。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
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